リングでは包丁に身を投げ、家では愛娘に身を捧ぐ。狂ったデスマッチファイター・竹田誠志の純な生き様 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

リングでは包丁に身を投げ、家では愛娘に身を捧ぐ。狂ったデスマッチファイター・竹田誠志の純な生き様

■夢を諦めかけた頃にやってきた大チャンス

▲「クレイジーキッド」としてデスマッチに飛び込んだ

 デスマッチの世界へ飛び込む機会を伺っていた竹田にチャンスが訪れる。U-FileCAMPでは独自興行を打っており、4つのスタイルに分かれて大会を開催していた。

 例えば、寝技のみで戦うルールや、キックボクシングのルールで戦うこともある。その中に「STYLE‐E」という大会が設けられた。この部門はプロレスルールでの戦いだ。

「試合に出ていた人が、僕がプロレス好きだと知っていたので『一回観に来て』って声をかけてもらったんです。その時は月一で大会を開いていたんですよ。僕は、U系のプロレス(※5)やっているのかなって思って観にいったら全然違いました。思い切り純プロレスの試合だったんです。それで、月1でもいいからプロレスやれたらいいなと思って、STYLE‐Eの練習生になったんです」

 そこから約1年経ち、プロレスラー・竹田誠志が誕生した。それをきっかけに竹田は、デスマッチのリングに上がるための行動を開始した。当時STYLE‐Eに上がっていたプロレスラー・橋本友彦(※6)が、主宰をしていた団体のリングに、デスマッチファイターの佐々木貴が参戦していたのを知った。

「これはチャンスだなと思って、挨拶したときに『僕はデスマッチやりたいんです』と話したら、李日韓(※7)さんから『大日本プロレスがテストマッチやっているから出てみない』と声をかけてもらったんです」

 諦めかけていた夢が遂に叶った。2008年に大日本プロレスのリングに上がった竹田は、憧れていた葛西純と6人タッグマッチで激突。この試合がデスマッチデビュー戦となった。

 それから竹田はデスマッチファイターとして頭角を現していく。闘いぶりは狂気に満ちており、ついた異名は「クレイジーキッド」。

 憧れの存在だった葛西純とは、共闘しながらも、対角線上に立つこともあった。そして大日本プロレス、プロレスリング・フリーダムズと2大デスマッチ団体で王座を獲得。アメリカのデスマッチ団体にも呼ばれるほどの存在へと登り詰めた。

 デスマッチに心躍らせた少年は、自らが憧れの存在になったのである。

※5:格闘技色が強いプロレススタイルを指す。一大ブームを起こしたUWFのようにキックやグランドの攻防を主にしたプロレスのスタイル。

※6:総合格闘技に参戦経験がある元プロレスラー。自主興行「MAKEHEN」を中心に活動しており、世界最大のプロレス団体WWE所属の紫雷イオを発掘した。「INOKI BOM-BA-YE 2003」でアリスター・オーフレイムと対戦した経験もある。

※7:元プロレスラーでレフェリー。大日本プロレスに営業兼レフェリーとして入社後、プロレスラーとしてデビュー。大日本プロレスを退社後は全日本プロレスでレフェリーとして活躍。

次のページリングでは包丁に身を投げ、家では愛娘に身を捧ぐ

KEYWORDS:

オススメ記事

篁五郎

たかむら ごろう

1973年神奈川県出身。小売業、販売業、サービス業と非正規で仕事を転々した後、フリーライターへ転身。西部邁の表現者塾ににて保守思想を学び、個人で勉強を続けている。現在、都内の医療法人と医療サイトをメインに芸能、スポーツ、プロレス、グルメ、マーケティングと雑多なジャンルで記事を執筆しつつ、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から文学者について話を聞く連載も手がけている。

この著者の記事一覧